仰るとおり

アラウンドサーティ、わたしと彼女とあのひとと

セックスに満足できないノンケのわたしと、性に奔放なレズビアンの「彼女」のはなし②

 

昨日の記事で話した「彼女」とのことは、いわゆる序章です。

 

 

hasegawanachi.hatenablog.com

 

 

白い薔薇の淵まで (集英社文庫)

白い薔薇の淵まで (集英社文庫)

 

 

 『白い薔薇の淵まで』中山可穂集英社

 

 

 

私と彼女がこの作品に出会ってからが、わたしたちの本当の高校生活のはじまりでした。

 

 

 

 

図書館でその文庫を見つけたはせがわ。

 

早熟だったはせがわは官能小説に興味津々。

少しエッチな(とはいえどぎつめの)小説を好んで読んでいました。

 

そんなはせがわはいつしか渡辺淳一の小説のファンになり、男女の性愛を描いた作品を探し回るようになります。

 

そんなときに出会ったこの作品。

 

表紙の写真に(背骨のラインが少々貧相だな)と思いつつも、その本が纏う艶っぽいオーラに引き寄せられるようでした。

 

蓋を開ければ女性同士の性愛小説。

 

 

何に驚いたかって、主人公の「クーチ」が恋に落ちる小説家の「塁」という女性。

 

活字で描かれた「塁」は、わたしの中の「彼女」と完全に重なっていたのです。

 

 

 

女性と付き合っているという彼女に、わたしはその本を手渡しました。

 

すごくおもしろいから読んで、と言って渡したような気がしたのですが、彼女曰く「きみって、レズビアンだと思うよ?」だったそうです。

 

記憶の改ざん。

 

(彼女は細かい会話をいまでもよく覚えています。)

 

 

彼女はすぐに「クーチ」に夢中になりました。

 

それはもう「塁」のように。

 

 

ある日、珍しく彼女から電話がありました。

 

わたしが勧めるまで頑なに携帯電話を持たなかった彼女。

そういうところも浮いていた理由のひとつでした。

 

携帯電話を手にしたからといって、鬼のようにメールは来れど電話がかかってくるなどということは皆無でした。

 

電話に出ると、すんすんと泣きじゃくる彼女の声。

いったいどうしたのかと、さすがのはせがわも動揺しました。

 

 

「わたし男無理だった」

 

女子みたいな声で泣きじゃくる彼女(女子だ)。

 

わたしにその事実を受け入れる以外の選択肢はなく、彼女もまた自分がレズビアンであることを確信した様子でした。

 

 

 

そしてその後、彼女が高校時代に付き合った女性は数人いましたが(わたしが知る限りでは数人)、そのすべての女性がノンケでした。

 

 

ノンケの女性を口説き落とせる彼女をわたしは素直に(すんげえ)と思ったし、彼女には女性をうっかり夢中にさせてしまう魅力はあると感じていました。

 

 

ほら、女の子って気まぐれな猫が好きでしょう?

 

 

ちなみにわたしは犬が好きです。

 

そう、男の子が好きなんです。

 

 

 

少なくとも高校時代のあの時期に彼女がわたしに心を開いてくれていたのは間違いありませんでした。

 

そんな彼女は時折わたしをその気にさせるような発言をしました。

 

どこぞのノンケ女を引っ掛けてきたテクニックをわたしで実践しているような気がしました。

 

 

それをさらりとかわせたことには、きちんと理由があるのです。

 

 

 

 

 

男性器が嫌いな彼女と、男性器が好きなわたし。

 

 

 

 

 

決して交わることのないステージに、わたしたちはいたのです。

 

 

 

わたしは他人の女性器を嫌悪し、彼女は他人の女性器を愛でました。

 

わたしは男性器を溺愛し、彼女は男性器を彼女の世界から排除しました。

 

 

わたしに少しでも、男性器への執着がなかったとしたら?

 

わたしが少しでも、男性器の汗とアンモニアの匂いを嫌悪していたら?

 

 

 

その気にさせたり、その気になったりしていたのかもしれませんね。

 

なんてたって高校生。

 

そのうえ『白い薔薇の淵まで』の活字の世界に魅了されていたわたしたちに、こんなにも手っ取り早い相手はいなかったでしょう。

 

 

 

 

 

ただ、はせがわは嫌いでした。

 

女性の生温い体温をたいへん嫌っておりました。

 

 

それについては、のちに話すとして。

彼女はそんなわたしを理解し、面白いとさえ言ってくれていました。

 

 

 

そしてわたしたちには、ふたりで楽しむべきことが他にもあったのです。

 

それが、文章を書くことでした。

 

 

 

 

『白い薔薇の淵まで』

 

この作品はわたしたちに己を再確認させ、活字への情熱を与えてくれた、いわばバイブルと呼ぶべき存在なのです。

 

 

 

次回からは、わたしと彼女の愉快な高校生活を綴っていこうとおもいます。

 

 

 

 

 

はせがわ